PLANET DESIRE
Prequel Ⅰ シーザー

Part Ⅲ


鳥が羽ばたいて行く。高く遠い空の向こうを……。時折、甲高い悲鳴のような声を上げて……。シーザーはごつごつとした岩肌の中央に立ち、じっと鳥を見ていた。それはいい肉だった。水場に降りて来れば捕らえられるものを……。
ここ数日、鳥の数が増えていた。が、何故か鳥達は皆、天の彼方へと飛び去って、怪物の手の届く水場には全く降りて来なかった。まるで地上の愚を見下ろしているように、優越感の翼をいっぱいに広げて自由な空を舞い続けている。広大な砂漠を越えて、鳥は何処まで飛ぶのだろうか。

――海へ出るのよ
ミアが言った。
――この砂漠のずっと向こうには海があるの
「う…み……?」
――そうよ。広い広い海が……
ミアは憧れを込めた目でそれを語った。

「海……」
そこへ行って何になるのだろう、とシーザーは思う。そこにあるのは水だという。果てない水の砂漠が延々と続いているのだと……。だが、その塩辛い水の底には様々な生き物が潜み、美しい魚の群れが泳ぐという。そして、魚は人間の食べ物だとも彼女は言った。

魚は砂漠にもいた。岩山のずっと向こうに小さな川があり、それを遡って行くと緑の湿地帯が有り、更に上へ登った所に清水の湧き出している場所がある。そこは大きな窪みになっていて、深い所ではシーザーの肩近くまで水が溜まっていた。そこに何種類かの水生生物が暮らしている。シーザーは時々そこに行って火照った体を冷やしたり、こびり付いてしまった血や泥を落としたりしていた。そこにミアが言っていた魚らしい生き物が泳いでいるのを見た事がある。もし、あれらが食べられるのであれば、何時降りて来るのかわからない鳥を待つよりずっと早く腹を満たせるかもしれない。

シーザーは急いで岩を駆け下りた。

「魚……」
シーザーが駆けて来て言った。ミアは地に生えた僅かな草の間に罠を仕掛けていた。水場にやって来る小動物を捕まえるのだ。が、いくら仕掛けても効果の程は上がらなかった。そもそも動物の数が少ないことと、たとえ掛かっても大した食料にはならなかったからだ。もう何日もまともな食事を摂っていない。頼りの綱のグリフィンの実でさえ、今はまだ小さくて熟していない物ばかりになってしまった。だから、少しでも可能性がある事は全部試しておきたいのだ。

「シーザー、狩りはどうだった?」
やつれた顔でミアが訊いた。
「……ない」
しわがれた怪物の声が応える。
「そう……」
肩を落とすミア。
「シーザー、お腹が空いたでしょう?」
「……」
「ねえ、もし、このまま食料が見つからなかったら……」
ミアが言った。食べられない植物の葉が何本も伸びて彼女の手を傷つけている。怪物はその葉を鋭い爪で切り裂こうとした。その時、俯いていた彼女が急に顔を上げて言った。
「わたしを食べてもいいのよ」
「……ミ…ア……!」
驚いてその顔を見つめる。

「本当に……いいのよ。このままでは二人共飢え死にしてしまう……。だったら、あなただけでも生き延びて欲しいの。
そもそも、こんな砂漠に踏み込んだ人間がいけなかったのよ。ここは本当に聖地だったんだわ。ラルフの言った通り……。ラルフっていうのはね、わたしの幼馴染なの。わたし達、ずっと小さい頃から仲良しだったのよ。けど、両親がキャラバンに入るのでわたしもいっしょに行く事になったの。
キャラバンというのはね、眠っている遺跡を調査したり、廃棄されてしまった街や建物に放棄されている物の中から有用な物を発掘し、回収する人達の事よ。宝探しなんて言う人もいるけど、危険も伴うし、専門の知識も必要な大変なお仕事なの。
わたしは、今でこそ視力を失って不自由な身になってしまったけれど、小さい頃からとても勘の鋭い子でね。視力が恐ろしくよかったの。それで、埋もれた黄金や宝石、有用な金属や物質を見つけ出す能力があったの。それで、随分たくさんの物を掘り出して両親は喜んでくれたわ。
だから、わたしをこんな砂漠へ連れて来たの。
でも、ここは聖地だった。昔から、この地には決して近寄ってはならないと……。だから、簡単には人が入れないような囲いを……。でも、ここにはかつて栄えた夢のような文明の軌跡があると……。そこには素晴らしい宝の山が埋まっているのだと……。いつの間にか人々の間に伝説が生まれたの。そして、キャラバンの人達はそれを信じて探し求めていた。
両親はわたしに期待していたわ。だけど……。そこにあったのは広大な砂漠。焼けた大地と瓦礫……そして、人を食う怪物。だから、国はこの場所へ入る事を禁止していたのよ。人間を人食いから守るために……。
なのに、キャラバンの人達は禁断を犯し、柵を越えた……。
だから罰を受けたの。大人達はみんな怪物に食われ、わたしは目を……」

ミアの言っている意味は怪物にはよくわからなかった。が、彼は黙ってその話を聞いていた。

「どうせなら、黄金や宝石を見つける力じゃなく、水や食べ物を見つけられる能力が備わっていればよかったのにね。わたし、気がついたの。人にとって1番大事な物が何なのか……。人間って本当は要らない物ばかりにしがみついているのね。それだけで両手がいっぱいになってしまって、本当に大切な物を掴めないでいる。本当に大事な物はなくして初めて気がつくの。それじゃ遅いのにね。
シーザー、あなたは怪物だから人間のように制約を受けずに自由に……生きたいように生きていいのよ。人間を食べる怪物のことを、人は悪魔のようだと言うけれど、人間だって他の動物を食べるわ。自分達の都合で卵を産ませ、人工交配で数を増やし、餌を与え、大きくして殺す。人間の食料にするために……。
どっちが残酷かなんてわからない。だから、ねえ、あなたが生きるためなら人間であるわたしを殺しても何の罪にもならないと思うの」

「ミア……」
遠くで聞こえる波の音……。それは岩山を吹き抜ける風の音だったかもしれない。だが、それはまるで大いなる生命の源、海の細波なのではないだろうかと怪物は思った。

「魚……」
唐突に思い出し、怪物が言った。
「魚……?」
ミアが聞き返す。
「魚って……? 海にいるあのお魚のこと?」
「あ……ああ……いる………魚……」
「魚がいたの? どこに?」
ミアが訊いた。
「あ…あ……水…に……」
上手く説明出来ない怪物は、いきなり彼女を抱き上げた。
「ミア……いっしょ……来る」
怪物のごつごつした肌にもミアはすっかり慣れていた。

そうやって怪物は危険な所を通る時、いつもそうして少女を庇い、抱き上げて運んだ。おかげでミアも怪物も行動半径がかなり広くなった。
隠れ家も建物の廃墟から岩山の洞窟へと移した。その方が強すぎる陽射しや雨や嵐、激しい温度差などを避けて快適に暮らせたし、入り口を大岩で塞ぐことにより、他の怪物から襲われる危険も減らす事が出来た。松明を灯し、囲炉裏を作り、生活に必要な物をいろいろ集めた。木や石で作った物、廃墟から拾って来た物、そして、シーザーが柵を越えて村から持って来た物など様々だった。
ある程度の生活の基盤が出来上がって来ていた。水は近くの川や水場から汲んで来た。怪物は狩りも得意だったが、それをしようにも肝心の獲物がいなければどうにも出来ない。木の実も限られていたし、もともと食料の少ない砂漠にあってはそれは仕方のない事だった。

シーザーは駆けた。大小の岩山を越え、今は枯れ木となってしまった森を越え、瓦礫を踏み越え、更に奥へ……。吹き荒ぶ風と闘いながら先へ進み、聳え立つ山の頂へ……。その岩山の窪地まで来て、怪物はようやく彼女を地面に下ろした。
「空気が冷たい……水? 水の音が聞こえるわ。シーザー、ここは……?」
ミアが恐る恐る足を踏み出して訊いた。
「水……たくさん……魚……」
「ここは川?」
水分を含んだ心地よい風を感じてミアが訊いた。
「川……ない」
シーザーは言ったが、それを何と表現するのか怪物にはわからなかった。と、その時、水面が盛り上がってバシャッと水音が聞こえた。
「何? シーザー、何かが跳ねたわ。水に飛び込んで行った」
「魚……?」
シーザーが言った。
「魚……本当にここには魚がいるのね」
ミアはうれしそうに言った。そして、また一歩前に進む。

と突然、ミアが小さく悲鳴を上げた。足を滑らせたのだ。そして、そのまま水の中へ沈んでしまった。怪物が素早く水に入り、彼女を救い上げようとした時、ザバッと水音をさせて彼女が水の中から上半身を出して来た。その髪からも服からもポタポタと水滴が滴っている。
「ああ、驚いた。でも、気持ちいい。ここは池? それとも湖なのかしら?」
立ち上がって周囲に手を伸ばしてパシャパシャと水をかいた。水深は彼女の腰の辺り。シーザーにとっては膝の高さまでもない。彼女はそろそろと足を動かしてみた。少しずつ底が斜めになっていて深さが増している。
「あまり行くと危ないわね。でも素敵。ねえ、シーザー、ここで水浴びしましょうよ。水の中は気持ちいいし、わたし、体を洗いたいわ」
言うと彼女はゆっくりと淵に近づいて、それを確かめると着ていた服を全部脱いでそこへ置いた。
「取り合えず洋服は洗濯して乾かしておきましょう。その間に体や髪を洗って、少し泳ぎたいわ」

久しぶりに浸かった水の感触にミアははしゃいでいた。熱く乾いた砂漠にあって水浴は希少な体験だった。
「シーザー! シーザー! 何かいる! 今、わたしの足の間をくぐって行ったわ」
少し深い所まで来ていたミアが驚いて叫んだ。
「魚……」
前方にいた怪物がそれを掴もうとして水の中に手を突っ込んだ。が、ぬめりとした魚の体はその手から抜けて反対側へと泳いで行ってしまった。
「ウグァ……」
派手な水音をさせてまた怪物が近づく。が、魚はスイと泳いでミアのすぐ脇を通り過ぎた。
「グォググゥ……!」
彼は水の中を走って魚を追った。そこへ現れた新たな魚影……。
そっと近づいて捕まえようと両手を突っ込んだ瞬間。しぶきを上げて魚が跳躍した。シーザーからも魚からも水滴が飛んで光に反射して輝いている。
「ウグァア……」
シーザーは懸命にその魚を捕まえようと追い掛け回す。が、水の中ではそこで生きて来たものの方が一枚上手だ。シーザーは水面を叩いて咆哮を上げた。

「シーザー、ただ闇雲に追いかけ回したってだめよ。ちゃんと作戦を立てなきゃ……」
ミアが胸の辺りまでゆったりと水に浸かって言った。
「そうね。たとえば、なるべく浅い方とか細長い場所とか、逃げられないような場所に追い込むとか……」
怪物は納得したらしく、今度は作戦を変え、わざと水音をさせながら巧みに魚をミアがいる方向へと追い詰めた。自分のすぐ近くを魚が泳いで行くのを感じてミアもそれを掴もうと手を伸ばすが、そう簡単に行く筈もなく、魚はあっさりその手をすり抜けて行ってしまった。が、そのすぐ先にシーザーが待ち構えていた。
彼はザクリとその爪を魚の胴体に突き立てた。
水面に血が滲み、魚は何とかその毒牙から逃れようともがいて暴れたが、湾曲した爪が深く食い込んで離れない。シーザーはそのまま腕を水面に上げた。大きな魚の銀の鱗が反射し、しぶきを飛ばしている。
魚は空に上げられてもまだ泳ぐ事をやめようとしなかった。そして、それは地面に投げ出されても……。魚は最後まで魚であろうとした。

「すごいわ。シーザー。これは大物よ」
もう動かなくなってしまった魚の胴体に触れてミアが言った。
「……もっと……いる……欲しい……」
シーザーは再び水の中に入って行った。その間にミアは手探りで枯れ枝を集め、火を起こす準備をした。
「魚……!」
またシーザーが水の中から叫んだ。掲げた手の先でまた大きなそれが銀色に光っている。
そうして、シーザーはミアの腕の長さ程もある魚を何匹も捕まえた。そして、それを串刺しにして火で焼いて食べると二人は満足した。
「いい味ね。でも、調味料があったらもっと美味しく食べられるのに……」
とミアが言った。
「チョウミ……?」
「そうよ。塩とかコショウとかいろいろよ。ここは海じゃないから水も塩辛くないし……」
「海……」
それは何処にあるのか? 人間が使う調味料とは何なのか? 怪物は興味を持った。

それから、二人は時々、そこへ行って魚を捕ったり、水浴びをしたりした。それはシーザーにとってもミアにとっても楽しい時間だった。

そんなある日。シーザーが村から持って来た物の中に偶然塩やコショウの袋が含まれていた。怪物は、夜、誰もいない倉庫に入って人間の食料を奪って来る事を覚えたのだ。その多くは穀物だったが、その中に幾つか混じっていた。
「これを使えば美味しい物が食べられるわ」
ミアは喜んだが、内心、シーザーが盗みを働いた事、そしてそれが自分のためにした事なのだと思うと暗い気持ちになった。それに、村に行くのはシーザーにとっても危険を侵すことになる。ましてや物を盗むのは悪い事なのだ。しかし、怪物には、それがわからない。食料事情の悪い砂漠で生き延びるためにはやむをえない事なのかもしれないが、ミアは何となく憂鬱な気分のまま蠢く炎を見つめていた。

「塩……」
パチパチといい音を立てて焼ける肉の塊を見てシーザーが言った。
「え、ええ。そうね。塩をかけるといいのよ。鳥のお肉は久し振りですものね。コショウも少しかけてみる?」
それはジュウジュウと焼けていい匂いがした。
「肉……」
シーザーが軽く舌なめずりして言った。そう。怪物は肉を食らって生きてきた。本当ならシーザーだって、村に行けばたくさんの餌である人間を目にしてそれを食いたくてたまらなかっただろうに、我慢してあえて食料だけを盗って来ているのだ。人間だって命を取られるよりは食料を盗られる方がいいに決まっている。ミアは、心の中でついそんな言い訳をしてしまっていた。

「ンガア……これ……すごい……いい」
肉は素晴らしく美味かった。シーザーは感激し、何度もその調味料の入った袋を抱き締めて頬ずりした。彼はすっかりその味が気に入ってしまったようだ。それは、肉だけでなく、魚や野菜の味も変化させた。塩やコショウをほんの少し使っただけで素晴らしいごちそうに変わるのだ。
「塩は人間にとって水と同じくらい貴重な物なのよ。きっとシーザーにとってもそうなんじゃないかしら? だって、これが美味しいって感じる事が出来るんですもの。それに、シーザーは人間のように2本足で歩くのだし、きっと人間に近い生き物なのね」
怪物の中には4つ足で歩く者やグロテスクで醜い姿をした者も数多くいたが、ミアはあまり見た事がなかった。シーザーは人型と言っても、走る姿は中腰で、皮膚の形状はまるで人間とは異なっていた。しかし、ミアにとって彼は特別な存在であり、シーザーは怪物ではなかった。

そしてまた、しばらくの時が過ぎた。彼らはまた最初に出会った廃墟に来ていた。そこにはまだ使える物が残されていたからだ。器やロープや錆びたナイフ……使えそうな物を掘り返して持って行った。大きなトランクや棚なども見つけた。腐ったり壊れたりして使えなくなってしまった物も多かったが、一つでも役に立ちそうな物を見つけると、二人はまるで宝物を見つけた子どものように喜んだ。それは邪で醜い感情がない分、キャラバンで働いていた頃とは違う純粋な喜びだった。

「見て! シーザー。大きな壷よ。どこも何ともなっていないわ。ああ。これにいっぱいのお花を差して飾りたいわ」
ミアが言った。
「花……?」
「そうよ。赤や黄色や白やピンク。いろんな色のお花をいっぱい……きっと甘くていい匂いがして、チョウチョだって飛んで来るかもしれないわ」
「チョウ……?」
「そうよ。見て。素敵な彫刻が施されてる。それに、すごく重い……。これはきっと大理石なんじゃないかしら? 洞窟に運ぶのは大変ね。そうだ。そこのまだあまり崩れていない石段の上に飾ったらどうかしら?」
「ああ……」
怪物がそれを持ち上げるとざらざら砂が零れ落ちた。が、それ自体に損傷はなく、怪物はミアが言った石段の上に置いた。

「あとでお花を飾ってわたし達の秘密の花園にしましょう」
と彼女がうれしそうに言った。
「花……」
シーザーはそれが何処にあったか思い出そうとした。砂漠の森にも花はあったが、その数は少なかった。それに、茎の短い草花や木の幹に密着しており、壷に飾るには相応しくない。そうなるとやはり外だ。人間の住む村には花もあった。あれを取って来るしかない。シーザーはまた境界を越えて村に向かった。

そして、ミアが朝、洞窟で目覚めると、そこら中から花のいい香りがした。
「シーザー、どうしたの? こんなにたくさんのお花……」
「壷……飾る」
怪物が言った。
「ありがとう。でも、こんなにたくさん、いっぺんには飾り切れないわ」
「……ない?」
「ええ。花は摘むとすぐに萎れてしまうの。花はとても弱い物なのよ。だから、必要なだけ少しずつ摘みましょうね」
「あ……ああ」
シーザーはうなだれたが、ミアは元気に言った。
「それじゃあ、早速飾りましょうね」

砂漠の中に置かれた壷は花で飾られ賑やかになった。そこだけがくっきりと鮮やかな色彩に満ち、確かな息遣いを感じる。
「素敵ね。でも、これはやっぱり場違いな気がする……。砂漠に合うのは砂漠の花……。外から持って来てもそこだけが浮いてしまう。それに、恐らくこの花達は温室育ちだから、こんな過酷な条件ではきっとすぐに枯れてしまうでしょう。シーザー、あなたがしてくれたことはとてもうれしい。けど、わたしはここに似合う砂漠の花を探すわ」
見れば、砂漠の強い風に吹かれ、温室の花はもうしゅんと首を垂れ、花びらは既に散り始めていた。

その頃になると、村では妙な噂が飛び交うようになっていた。
餌を食い尽くした怪物が村を襲いに来る。柵を壊し、高圧電流の流れている鉄線も破壊し、砂漠に閉じ込められた恨みを晴らすために村を人間を襲う。
そして、襲われた村には骨と建物の残骸しか残らない。そうやって以前にも地図から消えた村があるのだと……。
それは単なる噂に過ぎなかったが、実際、その村では怪物が村と砂漠を行き来しているのを見た人や、怪物に花や食料を盗まれたと主張する者もいた。ただ、食料はともかく、怪物が花を盗む筈はなく、単に自分のミスを怪物の仕業に仕立てて失敗を帳消しにしようとするけしからん奴だと罵られる者までいた。

「キャラバンの人達がどうなったか知りませんか?」
ある時、その村へやって来た若い旅人の男が訊いた。
「知り合いが大分前にあちらへ行ったきり戻っていないんです」
「あちらへ行っただって? そりゃあ自殺行為っちゅうもんさ。何のために高い金を掛けて塞いでると思ってるんだ? そういう馬鹿な連中がいるせいでおれ達は枕を高くして眠ることが出来ないでいる。そんな連中はとっくに怪物に食われちまってるさ」
「でも、もし無事でいるなら会いたいんです。この塀を越える方法を知りませんか?」
男は熱心に村を歩いて訊いて回った。が、なかなかその答えは得られなかった。が、何度目かに塀の近くを巡った時、キャラバンの生き残りだという男に会った。

「怪物に襲われたんだ。仲間は皆、怪物に食われたよ」
ジャンと名乗る男が言った。
「食われた? でも、ミアは? 女の子がいたでしょう?」
若い男は食い下がった。
「ああ。あの子は、途中で目をやられてね。ほとんど厄介者扱いされてたよ」
「そんな……! それで、その子はどうなったんですか?」
男はショックを隠せないでいた。その男の名前はラルフ ハウゼン。彼女とはずっと前からの幼なじみで、もう何年も行方不明になっている彼女を探しているのだと言った。

「そいつは気の毒だったな。だが、彼女はもう生きていないと思うよ。怪物があの子の両親を襲っているところを見たんだ。その時、あの子も近くにいた。恐らくは両親といっしょに怪物に食われちまったんじゃないかな?」
「ミアが怪物に襲われているところを見たんですか?」
ラルフは突っ込んで訊いた。が、ジャンは曖昧に言い訳する。
「いや、直接見た訳じゃない。親の方は確かに襲われて引き裂かれていた……。でも、その後の事はわからない。何しろ必死だったんだ。あんなすげえ怪物に襲われたら一溜まりもねえ……。だから、おれは……」
「ミアを見捨てて逃げたのか?」
ラルフが詰め寄る。
「仕方がなかったんだ! 誰だって自分の命は惜しいさ。そうだろう?」
男の語尾が震えている。ラルフはそれ以上糾弾しようとは思わなかった。
「そうだな。悪かったよ。教えてくれてありがとう」
彼はそれだけ言うと踵を返した。

ラルフは都会育ちで田舎の状況などまるで知らなかった。辺境の地では人食い怪物が出るらしいと噂を聞いた事はあっても、それはあくまでも架空の世界での話だと思っていたのだ。まさか、自分や自分の知り合いがそんな恐ろしい事に関わるなどとは夢にも思っていなかった。
だが、これは現実だ。この世界には、まだ人々が知らない真実が隠されている。
それを探り出したいなどとは思わなかった。が、彼にとってミアは大切な存在だったのだ。ジャンという男の話は彼を絶望的な気分にさせたが、また別の村人の話を聞いて一筋の希望を見出した。
それは、砂漠で少女を見たという目撃談だった。
ただ、それは実際に砂漠の中に踏み込んでの話ではなく、外から双眼鏡で覗くと岩山の上に裸の少女が見えるという半ば伝説のような話だった。それは昔死んだ少女の幽霊ではないかとか、砂漠が見せる蜃気楼の一つではないかとか、妄想壁のある男が誇張して言っているだけだとか、噂が噂を呼んで一体何処に真実があるのかまるでわからなくなってしまっていた。
が、それでも、僅かな可能性に掛けてラルフは砂漠の捜索を開始した。目撃された少女の特徴がミアのそれに一致していたからだ。
「誰かといっしょにいるのか? それとも一人ぼっちで孤独な思いで過ごしているのか。どちらにしてもこの目で確かめるまでは帰れない」

砂漠では温度差が激しく、昼は灼熱、夜は氷点下まで下がることもしょっちゅうだ。怪物はそんな外気温の変化に関して大して敏感ではないようだった。が、人間は違う。シーザーはミアのために夜には火を焚き、毛布を手に入れて来た。
「ありがとう。これにくるまっていると温かい……」
昼間はシーザーと一緒に狩りをしたり、剣の稽古をしたりと活動的なミアも、夜の冷たさは苦手だった。見えない目に映る火を見つめ、シーザーの近くに寄りたがった。
「ねえ、シーザー、わたし達、いつまでこうしていっしょにいられるかしら?」
すっかり袖が短くなってしまった服をしきりに引っ張ってミアが言った。
「一体、いつまで……」
怪物はただ黙って火を見つめている。まるで生き物のように燃え盛る炎を……。

壷の中に差した花はすっかり枯れてしまっていた。
「これじゃドライフラワーね。でも、それでもいいわ。ここにお花があったことの証明になるもの。それにね、今日は森で新しい花を見つけたの」
とミアはうれしそうに細い茎の先に付いている小さな花の枝を何本か、その壷に差した。
「ね? これはまだ小さいけれど、この砂漠で咲いた花なのよ。小さいけれど特別な花……」
ミアは顔を近づけてその花の香りを嗅いだ。それを見てシーザーも顔を寄せる。
「いい……花……」
「そうよ。これはいい花。わたし達にとって特別なお花……。大切にしましょうね」
遠くの空に少しだけ青さが覗いている。その空にまた鳥が羽ばたいていた。

「海……?」
シーザーがその単語を聞いたのはそれから間もなくのことだった。なくなってしまった塩を求めて村へ出た時だった。人間が話していたのだ。海へ行くと……。そして、それはそう遠くない所にあるらしい。人間達は動く機械の乗り物に乗って海へ行くという。怪物は必死でその後を追った。が、途中でそれを見失った。

だが、彼は気がついた。潮の香りと砂漠の太陽……。岩山が存外近くに見える。そこは砂漠の果て……。シーザーがテリトリーにしている岩山を二つ越えた際にある岬。その先に海があったのだ。彼はもの凄い速さでその岬の岩肌を駆け上り、それを見つけた。何処までも果てなく続く水の砂漠を……。

「グォオオ――っ!」

シーザーは叫んだ。そして、しばらくそのままでいた。潮風が心地よかった。どれくらい時間が過ぎた頃であったろう。怪物は満足して、岬を降りて水の近くに行った。手を入れると、それは本当に水で出来ていた。波が次々と押し寄せて怪物の足を洗った。魚の姿は見えなかったが、水につけた手をなめると確かに塩辛い味がする。シーザーは辺りを見回すと何か入れ物はないかと探した。

すると、砂浜のずっと向こうに赤い何かが半分埋もれて波に洗われているのが見えた。怪物はそこへ行くと砂を掘り返してそれを取り出した。小さな赤いバケツだった。何処にも穴は空いていない。シーザーは海水でそれを洗うと少し深い所まで行って水を汲んだ。そして、また手についた滴をなめ、塩の味がするのを確認すると、それを持って急いで岩山を登った。早く帰ってミアに教えてやりたかった。そして、あの子をここへ、海へ連れて来てやるのだ。そして、今度は魚も捕まえてミアといっしょに……。怪物はそれを思うと鼓動が高鳴るのを感じた。
「海……」
それは魅力的な響きだった。
「海……」
その水に浸けたらきっと塩味がつくに違いない。この水に何を浸けよう。怪物はそれに適した物はないかとあちこち見回す。

そして、丁度目の前を1羽の鳥が降下して来るのを見つけた。その先にある小さな水場に降りて来たのだ。シーザーはそっと近づいて張り出した岩の影に隠れた。そして、鳥が羽を休め向こうを向いて水を飲み始めた時。一気に跳躍して両脇から爪をグサリと突き刺した。
「ギェーッ」
鳥は悲鳴を上げ、翼を広げて暴れたが、深く食い込んだ爪は逃げることを許さず、致命傷を与えた。


それは大きな獲物だった。これとさっき汲んだ水があればミアと二人満足のいく食事が出来るだろう。怪物は上機嫌だった。そして、いつもの隠れ家へ向かう。壷に差した花もまだ枯れていない。蕾だった花がまた一つ二つ開き始めていた。
「ミア……」
瓦礫の奥に呼びかけた。
「ミ…ア……」
しわがれた怪物の声に重なって、ざらざらとした灰色の風が崩れたコンクリートに吹きつける。しかし、暗い穴の中に少女の温もりはなかった。そして、いくら待っても何の返事も返って来ない……。
「ミ…ア……!」
怪物の中で何かがさざめいた。いない間に異変が起きたのだ。怪物はそこいら中の瓦礫を剥がし、中の状態を露にした。が、少女の姿は何処にもない。
「ミア!」
怪物は吼えた。そして、周辺を探した。まさか、他の怪物に襲われたのでは……。不安が広がる。が、それらしき痕跡はない。

ならば、何故少女はいなくなった?

岩場に出た。高台から周囲を見回す。が、何処にもその影はない。洞窟の中にもいない。そして、水場の森や岩山の裏を流れる川の方にも行ってみた。二人で遊んだあの湖にも……。が、遂にミアは見つからなかった。怪物はもう一度瓦礫の周辺に戻って来た。壷はそのまま真っ直ぐに立っている。
「ミ…ア……」
風が強く吹き抜けて人間の微かな匂いを運んで来た。が、それはミアのものとは違っていた。違う人間の匂い……。連れて行かれたのだ。人間に……。怪物は抱えていた鳥をぐしゃりと潰し、爪を立て、何度も何度も引き裂いた。

「グァオオオォ――ッ! ウオォオゥ――ッ!!!」

大地を震わせるような咆哮……。それは砂漠の風に呼応して、渇いた空に突き刺さり、天に亀裂を生じさせる程の凄まじさだった……。